「意思」を原因にしてはいけない。
2018/11/12
今日は「1111」。11月11日ですね。
いろいろなところで、1にちなんだイベントも開かれているようです。
私は・・・特に何もなく、いつもどおりの1日でしたが、
地元の商店街で何やら「アートイベント」というのをやっていて、
ちょっとのぞいてみました。
まあまあ人も繰り出していました。
地元も活性化するといいなあ。
さて、本題です。
★「意思」を原因にしてはいけない。
なかなかすぐにはご理解いただけないことで、
ABA(応用行動分析学)の考え方と、
一般的な考え方との大きな違いに、
「意思」の存在があります。
一般的には「意思」⇒「行動」の順です。
意思が行動を引き起こしている。
「思考」とか「気持ち」とか「強い想い」なども、
似たようなものでしょうか。
「やる気」もそうかも知れませんね。
「やる気」⇒「行動」。
「やる気が出たから行動する」。
そう、一般常識としては、
まず意思が先にくるのです。
で、そこまで深く考えることはないでしょうが、
なんとなく何もないところから「意思」が湧き出てくる、
というように捉えられているのではないでしょうか。
まずは最初に、意思が起こり、それが行動をさせている。
しかし、ABA(応用行動分析学)的には、
「行動」は環境との相互作用で引き起こされたり、
繰り返されたりすると捉えます。
料理を食べて、とても美味しいという結果(環境の変化)があれば、
自主的にその料理をまた食べるという行動が増えますし、
お手伝いをして、母親に褒められたら(環境の変化)、
また自分からお手伝いをするという行動が増えるのです。
スイッチを押して明るくなれば(環境の変化)、
また押すようになりますし、
もし明るくならなければ、押さなくなります。
ここに、
「食べたいから」
「お手伝いしたいから」
「明るくしたいから」
という、言語を一つ間に入れるか、
入れないかの違いなだけなのです。
上記のような言語は、
「意思」といわれるもの。
この「意思」を間に入れても入れなくても、
分析に一段階、概念をかませるだけなのであれば、
ちょっと複雑化するだけで、
そんなに問題ではないのです。
でも、問題なのは、
「食べたいから」
「お手伝いしたいから」
「明るくしたいから」
と、「意思」を行動の「原因」としてしまうことです。
どうしてそのような「意思」が出てきたのかというと、
その前にあった「環境の変化」があったから、
なのです。
環境の変化による「強化」、「弱化」があって、
(そこから「意思」という概念をつくって)
行動しているのです。
※ABA的には( )は、なくてもよいと考えます。
「意思」ばかりに着目すると、その前にある、
環境の変化は、なにやら薄まったり、なくなってしまい、
あたかも、なにもない所からの「意思」が湧き上がってきたように、
「意思」が根幹の原因ととらえられます。
すると、
行動したら(本当かどうかはわからないですが)、意思が強いからだ。
行動しなければ(本当かどうかはわからないですが)、意思が弱いからだ。
となります。
見えないものを原因にすることは、
とても楽なので、そちらに流れやすいです。
また、なんとなく、それが人間のよいところ、
みたいに尊厳化されているような気もします。
やりたいのは、行動すること。
意思が強いかどうかは、
行動した結果論でしか見ることができません。
意思を原因としてしまっては、いくらでもあとから決めることができます。
ABAを使っての行動変容、
毎回、毎回、この「意思」の壁にぶつかり、
なかなか周りの理解をもらうことが難しいのですが、
めげずに伝えていきたいと思います。
スキナーの時代から、
現代に至るまで、
周りに理解されないで、
ABA(応用行動分析学)が批判されることは多いと思います。
これが、
ABAの考えをしっかり分かってからの批判であれば、
議論もちゃんとできますし、
お互いの良さを受け入れるという、
建設的な方向にいくこともできるのだと思います。
が、
「私は人間なので、意思とか気持ちが大事だと思います」
というような感じで批判されてしまうのですね。
もっとわかりやすく伝える術を考えねば・・・。
本日の日課 60点(うーん、なかなか難しい)
(日課とは、オリジナルで作製した「行動アシスト手帳」に書かれている毎日やる25項目のうち、何項目やったかを点数化したものである。どんな項目かはナイショ。)