社労士開業記その2、住宅営業マンになる。
2018/09/09
今日は高校の部活がから帰ってくる娘と、立川で合流。
前から「飲んでみなよー」と言われていた、
流行りの貢茶(Gong Cha)を飲みました。
(立川店は、今日がちょうど開店2周年だったみたいです)
うん。
ホームセンターとかにあるクレープ屋さんのタピオカミルクティーと何が違うの
とても美味かったです!
さて、本題です。
★社労士開業記その2、住宅営業マンになる。
2か月以上間が空いてしまいましたが(すみませんすみません)、
不定期ではありますが、社労士を開業するまでと、
してから今までをブログで書いていきたいと思っています。
前回は、フリーターから正社員にならなくては・・・
ということで、住宅営業の社員になる、というところまで。
30歳にして、社労士を目指すことになったのですが、
その時の職業は、住宅営業マンだったのです。
あまり、そのような仕事をしていたとみられないのですが・・・。
大学卒業して、しばらくホテルでフリーターをしていて、
27歳ぐらいでやっと就職。
その会社は、横浜が本社で、
商社のグループ会社がやっていた、
高級輸入2×4住宅メーカーだったのです。
なぜ、その会社を選んだのか。
3つほど理由が。
1.生活レベルを落としたくなかった。
当時、フリーターとはいえ、
配膳の仕事でそこそこ稼いでいた私は、
転職前と同じぐらい、もしくは、下がっても多少に留めたかったのです。
すると、当時(20年前)に、20歳代の転職で、
未経験で30万後半などいく仕事はそんなにありません。
世の中をまだまだ知らない私は、
住宅営業の給与の良さに惹かれたわけです。
知らないことは怖いことですね。
2.先輩が同じ業界に転職した。
先輩、といっても、私と同じ配膳の仕事の先輩ではなく、
妻の先輩。
妻は、同じホテルで働いている花屋さんで、
その男性の上司が、花屋さんから住宅営業マンに転職したのでした。
その方のアドバイスなど受けつつ、
この業界をやってみようか、と思ったのでした。
3.内定をくれた。
なにせ、20代後半でフリーター。
そして、いまでもそうかもしれませんが、
とても頼りなく見られます。
履歴書で面接までいかず、
面接でもきっと、「仕事できるの?」
というように見られていたのだと思います。
実は、その横浜の輸入住宅メーカーも、
一度は社長面接まで行って、不採用になったのでした。
その時に、なんとなくでしたが、
面接をしてくれたことへの御礼の手紙を書いたのでした。
そうしたら、電話がかかってきて、使ってみる、とのこと。
試用期間ではありますが、内定をいただいたのです。
未経験の連続。
こうして、まったく未経験の住宅営業の仕事をすることになりました。
最初の6か月ぐらいは、工事に配属されて、
工事部の方たちにくっついていって、
現場の手伝い。
きっと足手まといだったかと思います。
そこそこ高額な住宅だったので、
お客様は役員や、医者や、パイロットの方などが多く、
横浜ということもあり、海沿いの高級住宅街や、別荘など、
いろいろな家を見るのは楽しかったです。
(当時の住宅展示場。立川にもあったのに、横浜配属でした)
そして、営業へ配属。
なにせ、今でもコミュニケーションが大の苦手。
なんで、今でも営業をやろうと思ったのか、と謎に感じることもありますが、
きっと、苦手なところを解消したい、
という気持ちもあったのかもしれません。
毎日つらい日々でした。
初日から数週間は、
とにかく、飛込み営業。
古い住宅街を、一軒一軒、チャイムを押しながら訪問し、
4~5千万ぐらいする注文住宅に建て替えませんか、
という、私にとっては泣きたくなるような仕事。
でも、その時は修行だと思って、ちゃんとサボらず(今はサボると思う)、
訪問したのでした。
そして、たまたま、飛込訪問した所の家が、
設計部の社員のご実家で、
そこから、ちゃんとサボらずに訪問している、ということが、
営業部にも伝わったのです。
この営業で、仕事が取れるとは上司も思っていなく、
慣れること、ちゃんとサボらずやるということ、を見られていたのかもしれません。
この住宅営業の仕事をしていたことは、
いま、とても役に立っていると思っています。
苦手ではあっても、なんとか人と話すことができてますので。
さて、しかしこの住宅営業をやっているときに、
社労士を目指すことにしたのです。
なぜか。長くなりましたので、次回に続きます。
本日の日課 56点(家建てたくなってきた。)
(日課とは、オリジナルで作製した「行動アシスト手帳」に書かれている毎日やる25項目のうち、何項目やったかを点数化したものである。どんな項目かはナイショ)